「ロマンポルノ」リブートプロジェクトの一環として、この7月に「天使のはらわた」のブルーレイボックスが発売される。封入されるのは1979年から1981年に劇場公開された一群と、少し間を置いて石井隆本人が監督した『天使のはらわた 赤い眩暈(めまい)』(1988)の計4本だ。最も古いものは、実に38年ぶりに世間に解き放たれる形となる。名画座で繰り返し上映されているしVHSやDVDといった他の媒体での鑑賞もされている作品なれど、高画質のブルーレイでのリリースというのは興味引く出来事と思う。

 今回は列に加わらなかった『女高生 天使のはらわた』(1978 監督曽根中生)という先行する作品があり、それを含めれば最初の三本がわずか一年の短期間で続々と製作された点には驚かされる。背景には石井隆が時代の寵児(ちょうじ)となり、世間を騒然とさせた事実がある。

 一体どの時点で石井が着目され、世の中を賑わせたものか。私は遅れて生まれたものだから実際に体感することは叶わなかった。昔の資料を集めてみたりインタビュウ記事を丹念に読んで想像を廻らすより仕方ないのだけれど、調べるにつれ当時の石井を巡るうねり具合がいかに烈しいものだったかに気付かされる。

 映画はシリーズ化されて石井の長編劇画【天使のはらわた】(1978-79)のタイトルをそれぞれが冠してはいるが、劇画【天使のはらわた】と面貌をきれいに重ねるのは実は最初の『女高生─』のみである。他の作品はそれ以前の石井の短篇劇画、たとえば【蒼い閃光】(1976)、【緋の奈落】(1976)等からイメージの輸血を受け、顔や手足に相当する物語なり台詞を移植されて仕上げられた。

 『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曾根中生)以降の映画づくりは、だから、さながら鉱脈をたどって地下へ地下へと潜っていく具合であり、石井の創作世界の過去作を手探る工程となった。いや、雰囲気からすれば、むしろアマゾン河を上流へ上流へと溯るポロロッカ Pororocaに喩えるべきか。もちろん劇画を離れたオリジナルな挿話も含まれるのだが、印象としては溯上の跡が目立っている。この事実が物語るのは【天使のはらわた】の連載が始まる前から、既にして狂おしいまでの鳴動が始まっていたという事だろう。

 石井にとって二冊目の単行本にあたる「名美」(立風書房 1977)において『歌麿 夢と知りせば』(1977)を撮って脂がのっていた実相寺昭雄が言葉を寄せているから、実質的にブームの起点はその辺りと言えそうだ。マイナーとメジャーをさえぎる皮膜を突き破り、体液なのか、それとも思念の奔流なのか分からないが、若い男性を中心とした読者を活性にみちびいた。口伝えに読み手を増やし、これをマスコミが察知して騒ぎ立てる。映画業界もこの機会を逃してならぬと奮起し、石井隆という新たな脚本家と相談を密にしていった。

 どれ程の熱狂があったものかを探るバロメーターとしては適当と思うが、当時の週刊誌を探して石井の取り上げ方を追ってみれば実にあざやかな航跡が現われる。「週刊現代」(講談社)が1978年5月に、「週刊サンケイ」 (扶桑社)が同年12月に、「週刊文春」(文芸春秋)も翌年1月に取り上げ、少し遅れて「週刊ポスト」 (小学館)も5月に取り上げている。「文春」以外はいずれも大きく5頁も割いて紹介しており壮観だ。どれだけ石井の出現が波を蹴立て、世間をずたずたに濡らしたかが読み取れる。

 ここで意識すべきは石井が牙城とした「ヤングコミック」と上記大衆誌の読者層は明らかに違うという点である。そこには時間差が生れている。若者や評論家、映画製作者たちの微熱を察知し、調べてみたらとんでもない物が蔓延していると知る。遅れを取り返そうと慌てふためく編集部の荒い息が表題や行間から噴き上がっている。

 だから、当然なのだけど、あまり石井隆を読み込んでいない執筆者が本来の石井の読者ではない年長の購買層に向けてブームを紹介する、そんな構図を取らざるを得ないのだった。これら週刊誌の記事は石井世界の真髄に触れることなく、作者の体質をよく理解していない。入念に描かれた衣服や性愛描写は世界観の統一をひたすら願う石井の譲れない技法であったのだが、悪戯にそこばかりに焦点を絞っていき、劣情を煽り立てる語句で頁が埋め尽くされてしまった。インタビュウでの大切な言葉がものの見事に棄てられた可能性さえあって、正直言えば掲載の事実や時期を除いては今日あまり大きな意味を持たない。

 ただ、手馴れた文体で猥雑な言葉を連射する執筆者の筆先がふと止まり、そこに戸惑いや素の感動が時折入り混じる瞬間があって、そこのところに石井劇画がもたらす物語の本質が浮き彫りになっているのは面白い。

 「石井隆の世界には、一見、荒々しいバイオレンスの風が吹きすさんでいるのだが、丹念に見ていくと、それもこれもがみな、女性探求のための道具立てだとわかる。(中略)暴行されている側の女性のほうに、周囲の男たちがとても太刀打ち出来ないほどの存在感が、表現されていたりする。たしかに状況は暗くて切ないが、そのなかでまぎれもなく生きているのは、常に女性のほうなのだ」、「石井隆の激しい作風のなかに、ふと表現されるさりげない“やさしさ”の根は、セックスに対するこの古風とも思われる生真面目さから出ているのかもしれない。」(*1)

 「石井隆という劇画家を見ると、はっきりと異質のものを感じとることができる。」「ときに直截的にエロを描き、ときにはワン・カットのなかを吹き抜ける風さえエロティックに描いてしまう。臭ってくるような筆致が妙になまなましい。」「“劇画”を描いて、その作品“論”が出るほどの存在に、彼はなりつつある。」(*2)

 このような“生真面目”で“やさしさ”を帯びた解題というのは倦怠気味のサラリーマンを主体とする読者層を扇情する仕掛けに決してならないのだが、そもそも石井隆の劇画の全部とは言わないけれど、そのほとんどは欲望を発散させる受け皿になっていない訳だから、かえって的を射た発言となっているのが可笑しい。
 
 女性を人形として扱うのではなく生きて思念する存在として捉え直す試みは、なにも石井隆の専売特許ではなく、文学や映画において粘り強く行なわれた闘いであるけれど、漫画や劇画界において、そして、邦画界の脚本とフィルム上に定着された人間模様において、その役割の一翼を当時の石井隆が担っていたのはまぎれもない事実だろう。70年代末期には上の記事のように石井隆と彼の劇画は社会現象と認知されたのであり、それがあって映画シリーズも産まれ出た訳であるけれども、週刊誌がようやっと勘付いた世相の裏側では“まぎれもなく生きている女性”を探求する男たちの、まなざしの改革が既に熱心に行なわれていた。私たちは今回の「天使のはらわた」のぎらついた円盤の丸い穴から向う側を覗いて石井のもたらした“異質”を嗅ぎ取り、この国の精神的成熟の岐路を目撃して良いように思う。

 当時を生きた元青年のいちいちの気持ちがどうであったかは、皆のまわりにおられる現在六十代前半の先達に直接話を聞いてもらうしか術はない。けれど、石井の劇画が女性の裸体を克明に刻んだ春画の側面を持ち、それを前に読者の身体が若々しい反応を起こした瞬間が皆無ではない以上、彼らが素直に口を開くかどうかは疑わしい。酒席で酩酊していくらか軟化した彼らを言葉巧みに誘導し、昔語りの甘い罠へと落とし込むより道はないのだが現実にはなかなか難しそうだ。

 わたしは彼らより幾分若い年齢であるのだが、石井隆の【天使のはらわた】が連載された少し後、と言っても今からもう三十有余年も前になるのだが、若者たちにどのように読まれたかをここで打ち明けたいと思う。これからの読み手にどんな意味を持つのか分からないが、石井隆の劇画の性格とは本来どのようなものであったかの思案や判断の助けになるのではなかろうか。

 むさくるしい学生寮での反応だ。当時の寮というのは四畳半の畳敷きが普通であり、隣の部屋とは一枚か二枚の薄い合板で隔てられるばかりだった。汗だくで日々暮らし、夜は寝苦しいのが普通だった。クーラーが部屋にある環境なんて露ほども頭に想い浮ばなかった。風呂もトイレも共同であり、食堂に置かれた映りの悪いブラウン管型テレビジョンを囲んで深夜番組を皆で眺めるのが息抜きだったが、その頃は録画用の機械も個人宅に普及する以前であり、当然貧乏な学生の吹き溜まる寮にそんな物は影も形もないのだった。だからテレビジョンというものは見逃すことを前提にして漫然と眺めるのが正しい姿勢と言えたのであって、若者の多くは番組やタレントに極度に執着することなく、その分確実に観ることが出来る映画なり、確実に読める本なり、確実に会える友人や異性を探しては走る日々だった。

 全国からその寮にやって来た男どもは十数名であったが、誰かの部屋に集まって安酒を飲みながらする政治や恋愛話、たなびく紫煙としばしの沈黙、漫画の回し読みなんかが嬉しく、体温を帯びた記憶として頭の隅に残っている。私はそれ以前から熱心な石井劇画の読者であり収集家であったが、上京中に蔵書を親の目に晒すことを心底から恐れて布団や着替えと一緒にダンボール一箱分のそれを持ち込んでいた。生じる誤解や了解無しの廃棄処分を心配したのだった。私の部屋を訪れる男たちはそう多くはなかったが、石井の単行本を手に取ると無言で数頁をめくり、貸し出しを願い出ては一冊二冊を大事そうに持ち帰るのが常だった。

 彼らの慰みに使われて本が汚されてしまうとは思わなかった。欲望を解消させる対象は他にもあったのだ。グラビア誌やもっと直接的な本が手に入った。自販機本やビニール本と呼ばれる露骨な写真集が若者の性欲処理の役を担ったのであり、また、石井以外の作家の荒唐無稽で記号化された漫画も多く用いられた。石井隆の劇画群はそれらと傍目には似た部分があったが、本質はまるで違っていた。だから、それぞれの寮生の自室に持ち込まれた後で石井隆は彼らを完膚なきまでに打ちのめすに違いない、そう私は信じていた。

 案の定、数日後に本を片手に現れた彼らは誰もが伏し目がちとなり、ひと言ふた言の感想を語っては背中を向けるのだった。長崎から来ていた小柄な某は「おんなは怖いね、最後は男が引きずられて凄いね」とぽつりぽつりと語り、相当なトラウマになったようだった。大阪から来ていたTという男は焦げ茶のオートバイジャケットを羽織り、髪をポマードでまとめて私たちの中でいちばん元気であったが、【天使のはらわた】を返しに来た際には「面白かった、ありがとう」と穏やかに礼を口にし、その後で石井のオートバイの描写は見事であるが運転なりクラッチ操作の部分に少し間違いがある、と彼らしい感想を照れ臭そうに漏らした。

 私もふくめて若者たちは石井隆を、さらには「天使のはらわた」シリーズに代表される映画作品を単純なエロティックなものとは捉えずに真摯に受け止めていた。女性という存在を考え直し、それと向き合う今の自分が彼女らの気持ちに叶う大人なのかを値踏みした。恋愛の成就がもたらす至福と失敗が与える打撃をハイパーリアルに描いた、そんな教本として私たちは石井隆を熟読したのだ。

 その頃の漫画誌はストーリーの重視の流れから極端にデフォルメされたキャラクターが跋扈するレジャーランドへと変質を始めていたから、石井の劇画はいくらか気難しい顔付きに見えた。ネアカとかネクラという短絡的な区分けが流行っており、どちらかと言えば、いや、確実に石井隆はネクラに分類された。男子寮で奪い合う程の人気を博した訳ではないのだけど、偶然手に取った者の胸に重い残響を残した様子は十分に窺えた。

 軌道を外れたふたつの魂は並走こそ出来ても二度と重なり交じることが許されず、男女間を包みこむ内宇宙は無限の真空地帯であって、灼熱と凍結を無慈悲に繰り返すのだった。そんな場面が満載する預言書として機能した。私たちはおんなを愛し、恋愛を畏れた。性愛を渇望しつつ、欲望を憎悪した。おそらく私より上の世代の熱狂というのは、きっとそういう性質の膨大な数のざわめきだったのじゃないか。

 Tはそれから間もなくオートバイで走行中に転倒し、胸をしたたかに打って心臓が瞬時に破裂してあっけなくこの世から去って行った。【天使のはらわた】は彼の哲学や恋愛観に影響を与えたものだろうか。ガールフレンドを村木のようにおずおずと抱き締めたものだろうか。彼が愛した同級生のむすめは名美とは違う丸顔で愛嬌があったが、今ごろどこでどうして暮らしているのか。寮にいたほかの連中もどこで何をしているのか、同郷のひとりを除いてまったくの音信不通となって久しい。哲郎が曇った灰色の空を見上げて名美をひどく懐かしむように、石井劇画に対してささやかで神妙な面持ちの熱狂が束の間なれど渦巻いた古びた建物を思い返している。


(*1) : 「週刊現代」1978 「インタビューにっぽん人研究 第18回」(清水哲男)
(*2) : 「週刊サンケイ」1978 「現代人劇場 石井隆―エロス劇画路線ひた走り」(犬塚進)

New

Next : [5回連載]息を止めて描かれた無数の髪の毛 
~『天使のはらわた』のジャケット画~

page top